錠前サオリは本当に良い先生になりうるのだろうか

どうも、あせとです。

 普段は音楽ゲームをやったり、物理を勉強したり、メイン機種を総力戦から戦術対抗戦に移したりしています。

 

最近のメンバー、マリナと水シロが育ち切ってないのは許してほしい

 

 秤アツコの誕生日の1か月前である12月20日にこの記事が上がっていると思います。アツコ、誕生日おめでとう。(はやい)*1

 

どうぞよしなに。

 

 

 

 あと12/9に他の記事を投稿してるのでこちらもなにとぞ

acet.hatenablog.com

 

 

注:この記事にはVol.3 エデン条約編のネタバレが含まれています。

注:筆者はキリスト教エアプです。多分間違った解釈をしてますが雰囲気で読んでください。

 

 

 

 

 

問い

錠前サオリは本当に良い先生になりうるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

結論

なる!!!!

 

 

解説

錠前サオリの半生と境遇

・17年前、アリウス自治区にて産まれる

 キヴォトス人の出生については語られていないことが多く謎に包まれてはいるが、「母」と呼ばれる人が存在しており、おそらく我々の世界における母と同じ役割を持っているであろうということは判明している。サオリの母がどのような人物でありサオリをどう扱っていたかは不明。

 

・およそ11年前、アリウススクワッドが結成される

 

 窓枠の高さから戒野ミサキの身長を110cmとし、ミサキは現在16歳時点で身長の正規分布の+1σの部分にいるので5歳と推定できる。よってサオリは6歳、アツコは4歳、ミサキは5歳。

 このスチルで注目すべき点はサオリの様子だろう。サオリに注目してみると右太ももや左頬に湿布が貼られていることがわかる。湿布は切り傷というよりかはあざや打撲に対して貼るものであるため、サオリの怪我は誰かに殴られた、蹴られた跡だということがだろう。他の3人に同じような怪我がないのも特徴的だ。また、この記事では種々の恋愛感情及びミサキの自傷癖については語らないでおく。

 

・およそ7年前、アズサをかばう

 

 先程と同じようにミサキの身長を140cmと計算し、9歳と仮定。サオリはこの時10歳。アズサは9歳。

 先程のスチルでは足の様子がわからなかったが、このスチルを見てみると足首には金属の足枷のようなものがはめられており、靴は履いておらず裸足である。もちろんアリウス自治領の地面が日本以上に整備されているわけもなく、床に銃が散乱していることから金属片だってそこら中に落ちていることは容易に想像できる。この5人が非常に過酷な状況にいることは明らかだ。また、11年前時点ではサオリだけに湿布やけがの跡が見られていたのに対してこのスチルでは5人全員にけがの跡が見られる。

 

・現在、ベアトリーチェの命令によりゲヘナとトリニティを潰そうとするも失敗し、ベアトリーチェにアツコを生贄にされかける。また、その過程で身を挺してかばったアズサと命がけの戦いをする。

顔がいい

 

 あまりにも壮絶すぎる。詳細は実際にストーリーを確認してもらうとしても流石に置かれている状況が他のキャラクターに比べてえぐい。

 

 以上からわかる通り、錠前サオリとかいうキャラクターはブルアカ世界において最も壮絶な人生を送っているキャラクターと言っても過言ではない。では、そんな錠前サオリにおける「愛」について語ってみよう。

 

 

白洲アズサにおける家族と愛

 

 まずは以下の会話を見てみよう

エデン条約編4章26話「これからの私たち」より

 

 妙である。我々の知る常識の上では、仕方のない事情があったにせよ自分が所属するコミュニティや団体を本気で潰そうとし、大切な人の腹に穴をあけ、また自分もヘイローを破壊する爆弾を用いて本気で殺そうとした人のことを家族とは呼ばない。人が悪事を犯した肉親のことを「あいつは家族じゃない!」と叫ぶ様子は極端な例であるとはいえ想像できないわけではないし、そもそも白洲アズサにとって彼女たちは血のつながった家族ではない。しかしそれでもアズサはアリウススクワッドのことを、「家族」と呼ぶ。なぜだろうか。

 

 聖書にこんな言葉がある

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる

ヨハネ福音書13章34節

 

 数ある愛のうちの1つ、アガペーについて述べられた有名な1節だ。Vol.3「エデン条約編」において聖書が度々登場するのはご存じの通りであり、そもそもアリウス自治領は第1ニカイア公会議において破門された司祭・アリウスとその一派に由来する。

 さて、錠前サオリにおける愛について話を戻そう。上で述べた通り、アズサとサオリの出会いは教官に痛めつけられているアズサをかばったことだ。初対面のアズサのために上官へ反抗する。これは紛うことなきサオリからアズサへのアガペーではないだろうか。同様のシーンは他にもある。

エデン条約編4章第7話「選択と決断」より

 

 ユーザーネームを変更することで面白い画像を作れることで有名なこのシーンだが、事態は深刻である。アツコはベアトリーチェに攫われ他の二人は満身創痍。明日の夜明けまでにアツコを救い出さないとアツコは死んでしまうというのに、武器も底を尽き自分にはもう手立てがない。そんな中「アツコを救いたい」という一心でかつての宿敵である先生に土下座をしているのだ。これがアガペーでないのなら何というのだろう。

 ここまで考えればアズサがサオリを「家族」と形容したことも理解できる。現代においてアガペーが最も多く見られる関係性といえば「家族」になるだろう。決して少なくない例外が存在することを承知の上で断言してしまうと、「生まれた時から親は子供にアガペーを与え続けている」のだ。いくら銃を向けられたってサオリが自分に愛を与えてくれたことに変わりはない。そもそも戦争だってアツコを開放するため、アツコへのアガペーで始めたことである。そんなサオリを家族と呼ぶ、それはアズサにとって至極当然で変わることのないことなのだろう。「家族」なのだから。

ヒフミとの友情の証を人殺しの道具に使ってしまったことへの罪悪感からふさぎ込んでいるとされているが、家族同然のサオリたちを実際に殺そうとしたことへの罪悪感も抱えているだろう

エデン条約編3章第14話「暗闇の中で」より

 

 

錠前サオリにおける愛と大人

 しかしここで一つの疑問が生じる。錠前サオリはいったい誰からアガペーを受け取ったのだろうか。アリウススクワッドのメンバーやアズサがサオリを愛していないといいたいわけではない。ここで述べたいのはアガペーの不均衡さについてである。

 上で引用した『ヨハネ福音書13章34節』においては「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と綴られている。しかしながら、互いに愛しているからといって、その愛の大きさが全く同じとは限らない。幼少期における親から子供へのアガペーの大きさは、子供から親への愛のアガペーの大きさを大きく上回る。もちろん例外は存在するが、これは事実として認めてよいレベルの話だろう。この不均衡さを「与える人」と「受け取る人」と記述すると、サオリは「家族」に対して「与える人」であった。

 

サオリがスクワットのメンバーに対して「与える人」であったことを仄めかすと同時に、サオリの周りの大人がどのような人であったかを示唆している

槌永ヒヨリ絆ストーリー第1話「少女はそれでも読んでいたい」より

 

ではサオリにとって「与える人」は誰なのだろうか。我々の世界においては親や兄弟がそれにあたるが錠前サオリにそのような人がいたかどうかは怪しい。「錠前サオリの半生と境遇」で述べた通り、サオリはアリウス自治領において壮絶な日々を送ってきた。「人の好意には必ず裏がある」上の会話はサオリがヒヨリに対して愛を与えていた日々を想起させるのと同時に、サオリはアガペーの存在を否定しているということも読み取れる。ここまで来たら断言して良いだろう。サオリはこれまで「受け取る人」になることはなかったのだ。これは生徒として私が考える限り唯一の存在でもあるだろう。

 そう、生徒としては唯一の存在である。もう一人いるのだ。キヴォトスにおいて「受け取る人」になることがなかった人が。

 

 

キヴォトスにおける「先生」という存在

せん‐せい【先生】

①先に生まれた人。↔後生こうせい。
②学徳のすぐれた人。自分が師事する人。また、その人に対する敬称。「徂徠―」「お花の―」
③学校の教師。「担任の―」
④医師・弁護士など、指導的立場にある人に対する敬称。「―に診てもらう」
⑤他人を、親しみまたはからかって呼ぶ称。

広辞苑

 

 キヴォトスが学園都市であることから、普段用いられている先生は③の意味で間違いないだろう。だが、考えてみてほしい。なぜ先生は「先生」と呼ばれているのだろうか。ブルーアーカイブの世界において先生は、どこからともなく現れ失踪した生徒会長によって権限を与えられた大人である。シャーレという謎の組織に務め日々書類仕事に追われており、こちらの世界の先生と生徒の関係のように教室の中で学問を教えてるわけでわない。大人ではあるものの、先生であるにはいささか関係性の根拠が欠けているように思われる。

リン行政官も先生が来た経緯を知らないらしい

プロローグ1‐1より

 

 しかし、実際にゲーム内においては先生は「先生」として生徒たちから慕われる存在として描かれている。ここで以下の会話を見てみよう。

カルバノグの兎編1章第11話「大雨注意報」より

 

 子ウサギ公園でキャンプをしていたRabit小隊が大雨に対して為す術なくなっているところに、先生がやってきてRabit小隊を手伝うというシーンだ。繰り返しになるが私たちの世界では本来、先生は学校で学問を教える人であり、災害救助に赴く人でもない。キヴォトスにおいて主な業務はシャーレでの書類作業であり、ここでRabit小隊を助けに行く義務はない。しかし、先生は助けに行った。別に何かを望むわけではなく私は先生だから、と言って。

 このエピソードを機にRabit小隊と先生の間に信頼関係、具体的には「先生と生徒の関係」が生じることになる。つまるところ、先生は生徒に対して「与える人」の立場を取り続けているからこそ先生であることができるのだろう。そう、前の章の最後に示唆したサオリ以外の「受け取る人」になったことのない人とは「先生」のことなのだ。

 

 先程、サオリは「受け取る人」になることはなかったと書いた。しかし、これは正確ではない。以下の会話を見てみよう。

 

 

 

赦しを与える存在でもある先生が描かれている

 

 

エデン条約編4章第24話「少女たちのためのキリエ(2)」より

 多くの場合、自己存在の肯定の始まりは親からアガペーを受け取ること、親に対して「受け取る人」になることから始まる。しかしサオリには、親からのアガペーもそれに替わるものも存在しなかった。だからこそ、この会話で「与える人」である先生に対して「受け取る人」になったことでサオリは自分自身の存在を許すことができたのだろう。

 

さて、「錠前サオリは本当に良い先生になりうるのだろうか」について答えを出そうと思う。まずはこの問いの発端となった会話の前半部分について。

エデン条約編第25話「大切な人」より

 「責任感が強い」「決断力がある」「教えるのが上手」「真面目」「計画を立てるのが上手い」「指揮をするのが上手」どれも教師になるのにうってつけの性格と能力であるといえよう。一見これだけで「錠前サオリは良い教師になる」と結論づけてしまいそうになる。しかし、それは我々の世界での話だ。サオリたちが住む世界はキヴォトス。「先生」への適性の本質はこれではない。

 全ての生徒に対して「与える人」でいることができる

 「先生」という存在の本質を17年間体現してきた彼女だからこそ、先生はこう言うのだ。

 

なってくれ、、、、

 

 

結論:錠前サオリは良い「先生」になれる!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

サオリのメモリアルロビーについて(余談)

 ここまでサオリについて語ってきた筆者だが、じゃあサオリのメモロビをホームに設定しているのかというとしてない。なぜって、サオリの傷ついてる姿を見たくないから!!!!!

見たくないので

 いやだってさ、、俺サオリに幸せになってほしいもん、、、、なのに悪い人に騙されて不利な戦場に単騎で突っ込んで傷を負ってる姿なんて、、、、、、、

 いやでもわかるよ、メモリアルロビーって大切な思い出の瞬間なんだもんね、、、、サオリは現状お世辞にも幸せになっているとは言えない。そんななか幸せな瞬間を無理に作ってメモロビにするんじゃなくてサオリのありのままを描いたYostarくんは偉いと思うよ、ほんと。辛いけど。

 

スクワッドメンバーの他のメモロビ、、、、

こいつだけなんかたくましいな、、、、

追伸

 

 

 

 アリウススクワッド晴れ着イベント待ってます!!!!!

 

 

 

ほんとにおわり

 

 



 

 

 

*1:Q.なんで槌永ヒヨリ(1/8)や戒野ミサキ(1/13)の誕生日の1か月前じゃないの?A.なう(2023/12/15 11:35:41)